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江戸時代の初期、摂津の国「佃村」という小さい漁村の漁民たちは、大阪の陣の活躍などにより
徳川家康から全国どこでも無税で漁が出来る権利を与えられました。
漁民たちは、その恩に報いるため、年に一度幕府へ魚を献上していましたが、いっそ江戸へ 移住しようということになり、名主孫右衛門以下30余名が隅田川河口の中州(現在の東京都中央区
の南東部に位置する隅田川左岸あたり)に移り住み、そこを故郷の村の名をとり「佃島」と名づけました。 その後、諸侯へ納める魚の残りの雑魚を醤油で煮て、自家製の惣菜として近所で売ってみたところ、
保存がきいて、値段も安いと評判になり、佃島の名をとって「佃煮」と呼ばれるようになりました。
やがて佃煮は幕府御用達にまで昇格し、参勤交代の大名たちの江戸土産として重宝されるようになるのです。 |
その佃島の漁民たちが保存食としていた佃煮に目をつけたひとりの男がいました。
当時すでにその名を轟かせていた「玉木屋」の三代目七兵衛です。
七兵衛は、佃島の漁民が小魚で作った保存食から発想し、製法にさらに独自の工夫を重ねて味・香り・艶と 三拍子そろった江戸佃煮を完成させました。
それが世界でも希な200年以上の歴史をもつ「保存できる即席食品」の始まりであり、 三代目七兵衛は佃煮づくりの元祖と呼ぶことができるでしょう。
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天明2(1782)年、越後の国 通称・玉木村から、青雲の志を抱いて江戸に出てきた初代の玉木屋七兵衛が、
禅宗の住持から黒豆を砂糖味で煮ることを教えてもらって「ザゼン、ザゼン」と連呼しながら座禅豆として 売り出したのが始まりといわれています。
何故、「座禅豆」と呼ばれたのでしょうか。
僧が座禅を組む時に食べたので「ざぜん豆」と呼ぶように なったという説と、原料のがんくい豆の形が座禅の組み足に似ているからという説があります。
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この座禅豆をはじめとする玉木屋家伝の煮豆は、江戸の風流人・方外道人の著した「江戸風物詩」でも
取り上げられているほどの逸品です。
明治時代には、生粋の江戸っ子作家 永井荷風は・・・ |
余、十年前、築地に仮住居せし頃には、日々玉木屋の煮豆味噌などを好みて食しぬ。
この日たまたま重ねてこれを口にするに、その味十年前と更に異なる所なし。
玉木屋はさすがに江戸以来の老舗なるかな。
何年たちても店の品物を粗悪にならざるは、当今の如き余にありては誠に感ずべきことなり。 |
と、著書「断腸亭日乗」日記に記しています。 |
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